2015年8月5日水曜日

反日はどこからくるの

反日を追っています。そして守るべき日本とは何か考えています。

朝日新聞の誤報取り消しからもう一年なのか~(´・ω・`)
(特集記事は2014.8.5~6)

【月刊正論】
性搾取大国韓国の不都合なる真実

 あれだけ日本の悪口を世界中に流しておいて自国に累が及べば“くさいものにフタですか?
(産経新聞ソウル支局長 加藤達也 月刊正論9月号)
→http://www.fujisan.co.jp/product/1482/

韓国社会で黙殺される米軍慰安婦
 朝鮮戦争の休戦後、在韓米軍基地の近くに「基地村」と 呼ばれた売春街が設けられた。そこで米軍を相手に売春をしていた韓国人女性122人が6月25日、韓国政府を相手どった訴訟をソウル中央地裁に起こした。 原告女性らは「米軍慰安婦」として韓国政府の厳しい管理下に置かれ、人権を侵害された-などと主張し、一人あたり1000万ウォンの国家賠償の支払いを求 めたのである。

 原告女性を支援する団体によれば「米軍慰安婦」による国家賠償請求訴訟は初めて。ニュースバリューは高いはずだった。今まで日本の慰安婦問題を世界中に喧伝してきた韓国にはブーメランのように自らに返ってくる問題でもある。
日本に対して「慰安婦」の強制動員を認めて謝罪せよ、と執拗に求めている手前もあり、韓国は「女性の性的搾取」を容認しない姿勢を世界に見せてきてもい る。こうしたことから今回の提訴には高い関心が集まるのではないかとみる向きもあった。だがこの提訴は韓国社会からほぼ、黙殺された。

 メディアでは左派系のハンギョレ新聞が7月5日、仮名で「キム・ジョンジャ」と名乗る原告の一人にインタビューして大型のカバーストーリーとして伝えたが、通信社の聯合ニュースは提訴当日の記者会見を淡々と伝えた程度だった。

 韓国の主要メディアはなぜこの問題を黙殺したのか? 国民は「日本軍」による「従軍慰安婦」問題に対するときのようになぜ、沸騰しないのか? それは韓国にとって「不都合な秘密」(ハンギョレ新聞)だからだ。
 ある野党系の国会議員のスタッフはいみじくも、こう言った。
「く さい物にはフタ、ですよ。この問題を突き詰めると朴正煕元大統領の責任論につながり、ひいては娘である朴槿恵大統領の政権の正統性にも関わる問題なので す。騒げば、韓国社会がかつて、様々な事情から売春をせざるを得なかった女性に米軍兵士の性欲処理を押しつけて切り捨てていたという目にしたくない事実が 表面化してしまう」
韓国政府にとって、今回の提訴は新しい問題提起では決してなかった。歴代政権は「米軍慰安婦」を知って いたし、「ドルを稼ぐ英雄」としておだててもいる。さらに、この問題が本格的に社会に訴えかけられてから10年以上が経過するのだが、左派政権当時も含め て問題の全面解決には至らなかった。

国会で示された米軍慰安婦の実態
 韓国国会は李明博政権末期の2012年10月と、朴槿恵政権となった後の13年11月の2回、国政監査で「米軍慰安婦」問題をめぐる政府の対応を取り上げている。

 質疑からは、1960年代に売春を法で禁じていた韓国政府が「米軍慰安婦」を例外的に・合法・的に管理し、最近まで、この問題に目を向けて来なかったという歴史的経緯が浮かび上がってくる。
× × ×
 2012年10月26日。5年に1度の大統領選を約2カ月後に控える中、国会は元「米軍慰安婦」の支援に取り組む「ヘッサル社会福祉会」という団体の代表を招聘して意見を聴いた。
「米軍慰安婦」が「軍事独裁」政権下で始められたものであったため、この問題を国会で審議することが大統領候補の朴槿恵氏を牽制する意味があったことは間違いなかった。国会でのやりとりを再現する。
《左派系野党の民主党(現・新政治民主連合)議員が質問する》
議員「淪落(売春)行為防止法が1962年12月に制定され、その時から淪落行為はできなくなったわけですが、合法的に基地村の売春が行われていたのはどういうことなのでしょう」

 代表「健康産業特別法という法律がありました。基地村に送られた貧しい女性は、基地村に到着次第、性病検診を受け、クラブで働くよう政府が煽りました」

 議員「国家的レベルで管理していた証拠はありますか?」
 代表「2008年に(ソウル近郊の)京畿道女性開発基金で実態調査と討論会を行いました。(米軍慰安婦だった)おばあさんの証言を基に討論会の資料を作成しました。そこに『国が関与した』という内容があります」
《議 員は、政府機関がおばあさん(慰安婦)たちを対象にした集まりを毎月1回程度開き、愛国者と呼び、名簿を管理、運営していた証拠があったと述べ、さらに 「米軍慰安婦」の管理に政府機関が関わっていた事実を紹介。「基地村」の問題が韓国南西部全羅北道の群山や南部の大都市・大邱などにもあることを指摘し、 政府に質問をぶつける》
 議員「女性家族省でも今後は全体的な実態調査をしなければならないのでは? 女性家族相の考えはいかがですか」
 女性家族相「検討したいと思います。調査は簡単ではないと思いますが、以前に調査をした際には統計庁の承認も受けられず、といったようなケースもありました。さまざまな問題がありますが、一度内部的に検討してみます」

(続きは月刊正論9月号でお読みください)
産経ニュース2014.8.6
http://www.sankei.com/world/news/140806/wor1408060048-n1.html

産経新聞の加藤達也氏が出国禁止処分になったのはセウォル号事故の記事ではなく
この記事のせいではないかとも言われている

【wiki】産経新聞韓国大統領名誉毀損問題 
産 経新聞韓国大統領名誉毀損問題(さんけいしんぶんかんこくだいとうりょうめいよきそんもんだい)とは、2014年8月3日に産経新聞の加藤達也ソウル支局 長が、2014年韓国フェリー転覆事故の当日に朴槿恵韓国大統領が補佐官のチョン・ユンフェ(韓国語版)と密会したという朝鮮日報や証券街の報道を産経新 聞のWEBサイトに掲載。韓国大統領府や在日韓国大使館は「名誉毀損などにあたる」として記事削除の要請を求めたが、産経新聞は記事の削除に応じなかった ため、韓国検察が加藤を朴大統領の名誉を毀損したとして起訴し、出国禁止処分とした問題である。

経緯
2014年
8月3日 産経新聞のWEBサイトに2014年韓国フェリー転覆事故の当日に朴槿恵大統領が補佐官のチョン・ユンフェ(韓国語版)と密会したという朝鮮日報や証券街の報道が掲載される。
8月7日 ソウル中央地検が加藤の出国禁止処分を決定。
8月9日、韓国外交部の尹炳世長官は9日、ミャンマー・ネピドーで開催された岸田文雄外相との会談で、報道に関する韓国側の遺憾の意を伝えた。
8月12日、韓国外交部の韓恵進副報道官が記者会見で「根拠のない流言飛語を基にして国家元首の名誉を毀損した悪意的な報道で、極めて重大な事案とみている」と批判を行った。


8.3 セウォル号事故の記事
8.5・6 朝日新聞慰安婦特集で記事撤回
8.6 米軍慰安婦の記事
8.7 出国禁止処分

日付的にほぼ同時なんですね


【youtube】第13話 韓流ドラマはSF・ファンタジーの世界 ~ 朝鮮史の真実【CGS宮脇淳子】
2:40~
宮 脇淳子氏「これ(著書)出して私が言われたこと。日本で韓国語、朝鮮語教えてたり、韓国史を教えている人には絶対書けない。明日から職がなくなるから。一 切弾きだされて、一生相手にしてもらえなくて、国にも入れてもらえなくて、何にも手も足も出なくなるから絶対書けない本だと。私がそっちに無関係だから書 けたんだって言われた。」


こういう国なんですよね
だから
従軍慰安婦強制連行を覆した憎き産経新聞の記者が米軍慰安婦まで暴いた!
っていうことだったんじゃないかなぁと

憶測ですけどね

村山談話で今までの政府見解を変えることは良くて
村山談話を変えることはダメ ってなんだよ
俺はいいけどお前はダメ~
と書いたばかりだが同様に思ってる人がいたようだ

「村山談話」実態明らかに 当時の閣僚「だまし討ち」 次世代の党・和田議員ら緊急出版

村山談話自画自賛

  1995年8月15日、当時の村山富市首相が戦後50年の節目に発表した「村山談話」の知られざる実態が、ついに明らかになる。次世代の党の和田政宗参院 議員らによる検証プロジェクトチームは来月10日、『村山談話20年目の真実』(イーストプレス新書)を緊急出版する。批判と評価が交錯する同談話が、改 めて注目されそうだ。

 「関係者が健在な今だからこそ、確認できた作業だった」

 和田氏はこう語った。膨大な事実を検証していく作業は、新しい歴史の発見だったという。

 同談話については近年、「謝罪ありきで、理論的裏付けもなく、秘密裏につくられた」との批判が噴出していた。今回の検証で、村山改造内閣の複数の閣僚が「根回しされていない」「だまし討ちのようだった」などと不満をあらわにした。

 加えて、談話の中には、中国共産党の機関紙「人民日報」がよく使用するフレーズが使われているなど、中国の影響が疑われた。

  このため、和田氏は「談話作成に外国政府が関与していたのではないか」という質問主意書を政府に提出した。政府の答弁書は「公表の前に外国政府との間で文 書を調整し、又は外国政府に内容等を伝達したことを示す資料は確認されていない」というものだったが、一連の過程は興味深い。和田氏はいう。

  「慰安婦問題の河野洋平官房長官談話(93年)では、事前に韓国政府とすり合わせていたことが明らかになっている。村山談話についても、非公式に接触した 可能性はあります。そもそも、文案を作成したとされる内閣外政審議室長(当時)は、後に中国大使に就任したチャイナスクールの第一人者です」

 ちなみに、村山氏も共著『そうじゃのう…』(第三書館)で「中国なんかでもだいぶ評価してくれたしね」と語っている。

 和田氏は最後に、安倍晋三首相が来月発表する「戦後70年談話」について、次のように語った。

 「安倍首相は(村山談話を)『全体として引き継ぐ』と言っています。ならば、村山談話以前の政府の見解も引き継いでほしい。例えば、1972年の『日本国政府と中華人民共和国の共同声明』には、『侵略』や『植民地支配』の文言はありません。安倍首相には正しい歴史認識に基づく談話を発表し、ぜひ、村山談話を上書きしていただきたい」 (ジャーナリスト・安積明子)
和田政宗・村山談話本

zakzak2015.8.1
http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20150801/plt1508011000001-n1.htm

この本楽しみだなぁ(´・ω・`)

村山富市氏の著書
第三書館から出てるのか(◞‸◟)
辻元清美と第三書館・北川明

参考
一内閣の談話を未来永劫継承しなければならない法的根拠は何もない
村山富市のしでかしたこと

村山談話は卑怯なだまし討ちで可決された
→ 【櫻井よしこ 美しき勁き国へ】 真実ゆがめる朝日報道

【歴史戦】
第6部 「主戦場」米国(2) 朝日報道後に火が付く

  慰安婦問題など歴史認識での日本に対する韓国や中国からの不当な非難の主舞台はいまや米国に移った。超大国、そして同盟国である米国での動きは日本にとっ て特別の重みを持つ。米国内で勢いを増す日本糾弾はどう始まり、拡大してきたのか。その軌跡をたどることは日本側の今後の対策への有力な指針となろう。

◆「慰安婦連合」を組織
 米国内で慰安婦問題を公開の場で最初に提起したのは「ワシントン慰安婦問題連合」(慰安婦連合)という組織だった。活動家タイプの少数の在米韓国人らが主体となり、1992年12月に創設された。
  この年は慰安婦問題で大きな動きがあった。朝日新聞による「強制連行」報道で火が付き、官房長官、加藤紘一が「従軍慰安婦として筆舌に尽くしがたい辛苦を なめられた方々に衷心よりおわびの気持ちと反省の気持ち」を表明する談話を発表。首相、宮沢喜一は同年1月に訪韓した際、8回にわたり謝罪した。
  慰安婦連合は日本国内での盛り上がりに連動するように、活動目標に「日本政府に慰安婦に対する犯罪への責任を取らせ、公式の謝罪と賠償を求める」ことを掲 げた。そのために当面は「日本の犯罪についての一般への教育を広める」と宣言した。活動の大前提も「日本軍が朝鮮半島などの女性を組織的に強制連行して、 約20万人の性的奴隷にし、虐待した」という主張だった。
◆議員の陰に韓国女性
 慰安婦連合は議会や教育機関へのアプローチを着実に広げていった。このプロセスに深く関わったのが当時の米下院議員のレイン・エバンズ(民主党・イリノイ州選出)だ。
 エバンズは同連合の会長となったワシントン近郊にある大学の教授、徐玉子(ソ・オクジャ)と交際。2人は公の場にもパートナーとして頻繁に顔を出した。ホワイトハウスでの夕食会にも招かれ、あでやかな民族衣装チマチョゴリ姿の徐とタキシード姿のエバンズが、当時のクリントン大統領夫妻とともに親しげに並んだ写真は同連合の活動にも利用された。
  リベラル派とはいえエバンズは過去の戦争にも韓国にも特に関係はなかったが、徐らの意向を反映する形で93年11月、連邦議員24人から当時の首相、細川 護煕に「日本軍の性的奴隷の詳しい調査」を要求する主唱者の一人となった。その後、エバンズらは日本政府に慰安婦への謝罪を要求する活動を米議会で強めて いく。

                   ◇

■中韓の組織連携で反日拡大
 韓国系を中心とする「ワシントン慰安婦問題連合」(慰安婦連合)は発足後2年余こそ静かだったがその後、中国系団体の協力を得て、勢いを増し、反日の活動を広げる。中国系団体とは、1994年にカリフォルニア州で創設された「世界抗日戦争史実維護連合会」(抗日連合会)である。表向きには中国系米国人らにより組織され、同州クパチーノ市に本部を置いた。
◆河野談話追い風に
  設立の前年、日本では官房長官、河野洋平の談話が発表された。慰安婦募集の強制性を認めた河野談話は、米国内で「性的奴隷」攻撃を始めた韓国、中国の組織 を勢いづけた。「強制連行は日本政府も認めたではないか」という主張だ。その基になったのは、朝日新聞の一連の「強制連行」報道だった。

 抗日連合会はその使命として「日本に戦争での犯罪と残虐行為を率直かつ明白に謝罪させ、公正な賠償をさせる」ことをうたった。具体的には「南京大虐殺、米兵捕虜虐待、731細菌部隊、性的奴隷」などを糾弾するとした。日本の戦犯裁判や講和条約、戦時賠償など戦後の処理や清算を一切、認めないのだから「反日団体」と呼ぶほかない。
  慰安婦連合は河野談話を追い風に一気に攻勢を強めた。95年から真偽の不確実な慰安婦たちの映像や資料を公開する「慰安婦展」を首都ワシントンの教会や、 ジョージタウン大学の構内で開くようになった。ワシントンやペンシルベニア州最大都市のフィラデルフィアの公立図書館、さらには連邦議会の下院議員会館の ロビーでも開催した。
 在米日本人や留学生から反対の声も出たが、「日本政府も河野談話で非を認めた残虐行為への批判だ」という主張に圧せられた。
 慰安婦連合はその後、抗日連合会との連帯をさらに強め、息の長い反日活動を続けていく。国連へのロビー活動も進める。2014年5月のバージニア州フェアファクス郡の慰安婦碑設置でも中心として動くなど、今も活発である。
 1990年代後半からは、米国内で日本の戦時の行動を材料に現在の日本を糾弾しようとする動きの主役は抗日連合会に代わった。主体が代わっても、慰安婦は「性的奴隷」としていつも糾弾対象に含まれていた。
◆大学でシンポ開催
  活動も多様となる。抗日連合会は96年12月、カリフォルニア州のスタンフォード大学で「第二次大戦での日本の残虐行為への責任」と題する大規模なシンポ ジウムを3日にわたり開いた。慰安婦問題も主要議題だった。戦争当事国などから多数の学者や活動家が集まったが、中国系が最も多く、日本人参加者も日本の 戦時の行動を全て非難する「自虐派」だった。
 この集まりで発言の機会を多く与えられた人物が中国系米国人の女性ジャーナリスト、アイリス・チャンだっ た。「日本軍が最高司令部からの命令で中国民間人30万以上を殺した」などと誇張した97年の彼女の著作『ザ・レイプ・オブ・南京』は、抗日連合会が全組 織を挙げて宣伝し、販売することとなった。その結果、米国各地の大学や図書館、そしてマスコミと、「日本軍の残虐さ」が着実に広まった。
 抗日連合会と慰安婦連合が連携しての議会への働きかけも始まった。97年7月には、米下院議員のレイン・エバンズが下院に元慰安婦など「日本軍の戦争犯罪の犠牲者全てへの公式謝罪」を日本政府に求める決議案を提出した。
 この中韓両組織は2000年12月の東京での悪名高い「女性国際戦犯裁判」(英語の原題は「日本軍性的奴隷制に対する女性国際戦争犯罪裁判」)にも関与した。
両組織を中心に事実に基づかない反日宣伝が広まるなかで、日本側は反論することもなかった。河野談話が旧日本軍の非を認め、「心からのお詫(わ)びと反省の気持ち」だけを強調したことも、沈黙の主要な理由だったといえよう。(敬称略)
産経ニュース2014.8.31
http://www.sankei.com/world/news/140831/wor1408310035-n1.html


レイン・エバンス徐玉子ブッシュ
http://news.donga.com/view.php?id=Print_Donga%7C3%7C20070315%7C8418275%7C1


Former US Rep Lane Evans, veterans advocate, dies
レイン・エバンス

Former U.S. Rep. Lane Evans of Illinois, a former Marine who fought for veterans' rights during his 24 years in office, has died after a long fight with Parkinson's disease.
His legal guardian and former congressional staffer Michael Malmstrom says Evans died Wednesday at a nursing home in East Moline, Illinois.
The Democrat was 63.
Evans was first elected from his western Illinois district in 1982, and went on to serve 12 terms.
Evans announced he wouldn't seek re-election in 2006, citing his deteriorating health. He left office in January 2007.
The Vietnam War-era veteran served overseas in Okinawa, Japan.
As a congressman, he fought for the rights of veterans, including pushing legislation to help those exposed to Agent Orange.
He is survived by his three brothers.
FOXnews2014.11.6
http://www.foxnews.com/politics/2014/11/06/former-us-rep-lane-evans-veterans-advocate-dies/

長年の闘病生活(パーキンソン病)
ベトナム戦に従軍(沖縄駐留)
退役軍人の権利活動 枯葉剤被害

(´・ω・`)ふーんやっぱりベトナム反戦運動の流れなんですね  

トンヘ大学・金慶珠氏が
「8億はハシタ金、韓国経済発展の虎の子はベトナム派兵時の多額のドル」
8億ドルははした金どころか「たった数億ドルで屈辱」が本音
とおっしゃったベトナム派兵について

【野口裕之の軍事情勢】
「憲法9条の奴隷」が国会で披露した新説
山口二郎

  勤め先に飼い慣らされ、自らの意思と良心を放棄し奴隷=家畜と化したサラリーマンを「社畜」と呼ぶが、平和に飼い慣らされ、憲法第9条の奴隷と成り果てた 学者・政治家もいる。研究一筋で世情にうとく、常識に欠ける学者を「学者バカ」と呼ぶが、現実の安全保障空間を直視せずに、または意図的に無視し、自らの 政治思想に学理を無理に合わせているのなら「曲学の徒」ではないか。

韓国のベトナム派兵引用
 民主党の「御用学者」ともいわれる法政大学の山口二郎教授(57)は7月13日、衆議院平和安全法制特別委員会の中央公聴会で自説をぶった。
 「戦後日本が他国の戦争に巻き込まれずに済んだのは日米同盟のおかげではなく、憲法9条で集団的自衛権行使を禁止していたからだ」
 その上で“具体的メリット”を披瀝した。「ベトナム戦争(1960~75年)で韓国は、米韓相互防衛条約に基づき出兵を求められた。集団的自衛権の行使を否定していた日本は、ベトナム派兵など考慮する必要もなかった」
 韓国のベトナム派兵に、全く違う認識を抱く小欄には大変勉強になった。小欄の認識は-

(1)韓国は条約上、完全な強制義務を負ってはいない。
  →米韓相互防衛条約は、主に北朝鮮・太平洋地域をにらむ。韓国・南ベトナム間にも本格的同盟関係はない。さらに、豪州/ニュージーランド/フィリピン/タ イなど反共産主義同盟SEATO(東南アジア条約機構)の一部加盟国は、米国の要請でベトナム戦争に参戦したが、韓国は加盟していない。
 
(2)参戦は韓国の自発的要請米国は当初要請を受け入れず、後に段階的派兵を容認した。
  →米国の対韓軍事・経済援助が減少、外貨不足も深刻だった。クーデターで発足した朴正煕(パク・チョンヒ)政権は、経済成長による政権の正統性確保が不可 欠だった。米国は外貨補填+軍事費+韓国軍将兵の戦闘手当支給などで協力。将兵や道路・港湾建設労働者は手当・給金の大半を母国送金し、総額は巨額に達し た。結果、ベトナム特需が起き、韓国財閥は発展の基を固めた。

(3)北朝鮮に備えた在韓米軍の朝鮮半島貼り付けは国運を左右した。
 →在韓米軍の戦力がベトナムに転用されれば、半島の対北戦力が激減する。
(4)共産主義国家・北朝鮮による思想浸食を牽制すべく、共産主義国家・北ベトナムに対する断固たる姿勢が必要だった。
(5)朝鮮戦争(1950~53年休戦)で弱さを自覚した自国軍の強化と近代化に向け、実戦教育を積ませた。

集団的自衛権の解釈幅
  前述した「集団的自衛権の行使を否定していた日本は、ベトナム派兵など考慮する必要もなかった」という、ベトナム戦争と集団的自衛権との関係にしても小欄 の認識とは異なる。《ベトナム戦争激化は、自衛隊派遣を懸念する世論におもね、膨張する革新政党との無難な国会運営に引っ張られた自民党政権が、集団的自 衛権の解釈幅を狭め始める起点となった》と改めるべきだ。

 集団的自衛権は全面的に否定はされていなかった。むしろ現在、安倍晋三政権が国会で説明する《限定的容認》は長い間、政府見解であり続けた。例えば、1960年の法制局(現・内閣法制局)長官答弁。
 「密接な関係のある他の外国が武力攻撃を受けた場合(略)外国へまで行ってそれを防衛する(略)ことがいわゆる集団的自衛権の内容として特に理解されておる。この点は(略)憲法ではやはり認められていない」
 以上は、安倍政権も国会で繰り返し説明している主旨だが、以下の長官答弁もまた、安倍政権の主張と同一線上に在る。
「安保条約におきまして、米国に対して施設区域を提供致しております。(略)米国が他の国の侵略を受けた場合に、これに対してあるいは経済的な援助を与え るようなこと(略)を集団的自衛権というような言葉で理解すれば、こういうものを私は日本の憲法は否定しておるものとは考えません」

 まさに限定的容認である。ところが1960年代半ば~後半にかけベトナム戦争が激化。以後、解釈の比重が《攻撃された同盟国への直接助太刀論》に偏っていく。政府が72年、参議院に提出した資料にはこうある。

 《憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるので(略)他国に加えられた武力攻撃を阻止する(略)集団的自衛権の行使は、憲法上許されない》

定義変えで全面禁止可に
72年の政府見解以前、かくも明確に集団的自衛権を否定した例はない。それでも《他国に加えられた武力攻撃を阻止する》行動を禁じただけ。《生命、自由及 び幸福追求の権利が根底からくつがえされる(略)国民のこれらの権利を守るため止むを得ない》局面では、《必要な自衛の措置》を担保していた。

 集団的自衛権が「全然行使できない」と断ずる法制局長官が現れるのは81年に入って。 政府は答弁書で《憲法第9条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、 集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されない》と宣言してしまう。全面禁止を可能にした理屈は、集団的自衛権の定義を 変えたためだった。答弁書では、集団的自衛権を《自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもっ て阻止する権利》と、攻撃された同盟国への直接助太刀論に限定・固定化した。形態によっては許されていた集団的自衛権行使の定義が異常に狭められ、以降、 個々のケースが集団的自衛権行使→違憲に当たらぬか否かの吟味に、意味のないエネルギーが割かれていく

  安倍政権は72年以前の憲法解釈を踏襲したに過ぎぬ。左翼は「政府による解釈変更」を危険視するが、そもそも集団的自衛権の解釈は安全保障環境激変に伴っ た、政府とその助言機関・(内閣)法制局による変更の連続だった。一方、元法制局長官らは先輩長官たちが築き上げた解釈を、国会の場で「違憲呼ばわり」す る。国民が「分かりにくい」と嘆くのも宜なるかな。
(政治部専門委員 野口裕之/SANKEI EXPRESS)
産経ニュース2015.7.27
http://www.sankei.com/politics/news/150727/plt1507270005-n1.html 

韓国は自発的派兵だったんですね

で、村山談話もそうだけど
村山談話でそれまでの政府見解を変えたことは良くて
村山談話を変えることはダメだという

要するに気に入らない方に変える場合に騒ぐだけで
変えること自体に問題あるとはさらさら思ってないわけですね

(´・ω・`)ちょっとこれを見るがよい
p10
 日本の経済は、戦後、自由貿易体制の下で驚異的発展を遂げた。しかし、冷戦終結後、その経済力は、新興国の台頭などによって、相対的に低下する趨勢にある。また、少子高齢化も急速に進んでおり、防衛力に多くの資源を投入することはこれからも難しい。さらに、日本は、エネルギー、食糧等、多くの資源を海外に依存しており、これに起因する脆弱性はこれからも継続する

  日本は、第二次世界大戦における敗戦の経験から、戦後一貫して、抑制的防衛政策をとってきた。日本は平和憲法に基づき、他国の脅威にならない専守防衛政策 をとり、国民もこれを基本的に支持してきた。また、日米安保体制の下、主として自衛隊が対外的な拒否的抑止力の機能を担い、懲罰的な抑止力については基本 的に米軍に依存するという役割分担を維持してきた。さらに日本は、他の先進国には例を見ない事実上の武器禁輸政策を維持し、憲法解釈上、集団的自衛権は行使できないものとして、その安全保障政策、防衛政策を立案、実施してきた。ただし、こうした政策は、日本自身の選択によって変えることができる
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/shin-ampobouei2010/houkokusyo.pdf

鳩山内閣時(2010.8)の
新たな時代の安全保障と防衛力に関する懇談会 の報告書でございます
(なぜ今は反対反対言ってるのやら)

集団的自衛権「解釈変更を」 国家戦略会議分科会が提言

 野田政権の国家戦略会議フロンティア分科会(座長・大西隆東大教授)は6日、野田佳彦首相に2050年に向けた日本の将来像を提言する報告書を提出した。憲法解釈を変えて集団的自衛権の行使を認めるよう求めるなど、首相の持論に沿った内容となった。

 首相は官邸で報告書を受け取り、「近々まとめる(経済政策の)日本再生戦略に存分に反映させたい」と表明。「社会全体の議論喚起につながることを期待したい」とも語った。9月の民主党代表選や次の衆院選を視野に、今回の報告書を土台とした政策づくりを検討している。
 報告書は「『共創の国』づくり」と題し、少子高齢化や財政難、原発問題などに直面する日本を「課題先進国」と表現。政府や自治体、企業、個人の能力をつなぎ「新たな価値を創出する社会」を目指すとした。
  首相の持論がにじむ安全保障政策は「能動的な平和主義」を提唱。「米国や価値観を共有する諸国と安全保障協力を深化し、ネットワーク化を目指す」とし、 「集団的自衛権に関する解釈など旧来の制度慣行の見直しなどを通じて、安全保障協力手段の拡充を図るべきだ」と強調。集団的自衛権の行使を禁じる憲法解釈 の変更を求めた。
 首相は就任以来、集団的自衛権は「現時点で憲法解釈を変えることは考えていない」という姿勢だが、2009年の著書では「集団的自衛権は認めるべきだ」との考えを示していた
 集団的自衛権では安倍、麻生両政権が有識者会議を設け行使容認に向けた議論を始めたが、政権交代でたなざらしになっている。
 経済・財政面では「2020年に基礎的財政収支の黒字確保」と目標を掲げ、消費増税など「負担増」を主張。「国際的なルール形成を主導する」とした項目では、「TPP(環太平洋経済連携協定)を足がかり」とするよう求めた。
 社会保障は「世代間の所得移転から世代内移転を強めるよう改革する」とし、「給付の見直しなどの効率化」も要請。少子高齢化で若者の負担が増す現状を見直すもので、税と社会保障の一体改革と同じ方向だ。
■フロンティア分科会報告書(骨子)
▽少子高齢化など「課題先進国」日本が国際社会に先駆的モデルを示し貢献
▽政府の大きさに固執せず、自治体、企業、個人などと「共創の国」づくり
▽国際的なルール形成を主導。経済ではTPPを足がかりに
▽歳出削減、経済成長、増税で2020年に基礎的財政収支を黒字に
▽アジア太平洋からインド洋で大規模な変化が予想され、日米同盟強化が必要。集団的自衛権の(憲法)解釈見直しも検討
▽国家安全保障会議を設置
朝日新聞DIGITAL2012.7.7
http://www.asahi.com/special/minshu/TKY201207060738.html
野田元首相も集団的自衛権行使容認派だったと

そもそも
第一次安倍政権で集団的自衛権の限定行使容認が出来ていれば
民主党政権になって米国との関係が悪化していなければ

衝突事故は起きなかったかも?
尖閣衝突ビデオ
http://www.asahi.com/special/senkaku/TKY201011050164.html

(いずれにしても抑止力が足りないということですね)

2015.7.20 フジ みんなのニュース
フジみんなのニュース中国船に体当たり石垣
 フジみんなのニュース八重山漁業

「慰安婦は性奴隷」とか「強制徴用」だとか言う人がいるので
(´・ω・`)ちょっと読みたまへ




農本主義的な情念
(抜粋)
p50~52
 農漁村議員の思い、それがどういうものであったのか。2007年夏、長時間のインタビューに応じてくれた江藤隆美衆議院議員(故人)が教えてくれた。

ーー1959年に県会議員に当選し、議会が開かれる月は、毎朝早く宮崎市まで通うことになった。日豊線は単線だから、宮崎の一つ手前の駅で上り列車と待ち合わせる。

 毎年4月、5月はね、汽車も駅も、小倉で乗り換えて大阪や東京に向かう集団就職の学生服姿であふれてるんだ。

  男は学生服に揃いの白っぽいレインコート、女の子はセーラー服。何ともいえない顔つきで、窓の外を放心したように見ている者、泣きはらした目をして、見送 りの親といつまでも手を握り合っている者。両手には大きな荷物、泣き声や話し声は聞こえてこない。あくまで風景なんだよ。毎年、桜が咲き、散る季節にそれ がくりかえされる。見るのが、つらくてつらくてなあ・・・・。

 (19)60年と61年だけで、宮崎県から農村の息子と娘たちが6万人も 都会へ言ってしまった。だから、「二男、三男、娘たちが都会に行かなくてもいい、働く場のある郷土作り」をうたって国政に出たんだ。議員生活34年、あの 風景をわが郷土からなくしたいという想い、これについては何もできなかった。慙愧に堪えないよ。

 僕の唯一の自慢といえば、宮崎牛を神戸ビーフに負けないブランドにしたことかな。

  いやぁ、ついこの間まで日本全国、田舎はほんとうに貧しかった。君らには想像もできんだろう。県会に出る2年前まで公娼制度が残っていたんだ。だから中学 を出るか出ないかで、器量のいい子は花街に、そうでない子は口減らしに子守に出された。それに比べれば、「金の卵」とかもてはやされて集団就職した連中 は、まだ幸せだったってことかもしれないがね・・・・。

 でも今、宮崎県でこいのぼりが立っているのを見つけるのは大変になってしまった。子供の笑い声が聞こえない地域になってしまった・・・・。


【wiki】江藤隆美江藤隆美青嵐会
http://www.47news.jp/CN/200711/CN2007112201000311.html

1995 年8月、村山改造内閣で総務庁長官に就任するが、同年11月、朝鮮半島に対する日本の植民地支配に関し「日韓併合は強制的なものだったとした村山首相(当 時)の発言は誤りだ。植民地時代に日本は悪いこともしたが、良いこともした」というオフレコ発言を巡り、批判され長官を辞任した。


南京虐殺30万人はうそ 江藤氏、講演で発言
 自民党江藤・亀井派の江藤隆美会長は12日、福井市で開かれた自民党福井・足羽支部の定期大会で講演し、中国や韓国に対する歴史認識について「南京大虐殺(の死者)が30万人なんてでっち上げのうそっぱち」などと発言した。
 江藤氏は日本の中国や韓国への戦争がすべて正しいわけではなかったと断りながら「過去の歴代首相は侵略戦争だったと頭を下げて、自分の国が悪いように言ってきた」と批判。「日本人はこれまで自ら辱めるようなことやってきた」と指摘した。
 また最近の犯罪数の増加について言及する中で「新宿の歌舞伎町は今、第3国人が支配している無法地帯。そういうのが罪を犯している」などと述べた。
 江藤氏は総務庁長官だった1995年10月、「植民地時代、日本は韓国によいこともした」と発言し、閣僚を辞任している。
共同通信2003.7.12
http://www.47news.jp/CN/200307/CN2003071201000425.html
(全く正しかったわけですが)

江藤拓議員のお父さん

【youtube】1/3【赤松口蹄疫】2010/5/20 衆・本会議 自由民主党 江藤拓議員

口蹄疫の話だが、10年前に発生した時は、江藤隆美先生や山中貞則先生のご指導もあり、我が党の担当者が遅滞なく対処した。お二人の先生方は亡くなられているが、ご記憶の方も多いと思う。この時と比べてみたら、初動が遅かったことは明白ではないか
麻生太郎オフィシャルブログ2010.5.20
http://www.aso-taro.jp/diary/2010/05/20100520_1274340012.html


歴史認識、族議員、世襲議員
マスコミはさんざん叩いてきたけど
こう見ると何か問題でも?と言いたくなりますね 

特攻とアウシュビッツ?
特攻とナチスの虐殺は違う
更に続報キタ

「特攻と虐殺は違う」アウシュビッツとの友好協定中止を決定  知覧・南九州市 反対論が続出
南九州市役所

  さきの大戦末期、旧日本陸軍の特攻基地「知覧飛行場」があった鹿児島県南九州市が、アウシュビッツ強制収容所跡地のあるポーランドの都市と進めていた友好 交流協定の問題で、南九州市は27日、協定締結を中止することを明らかにした。「特攻とユダヤ人虐殺が同一視されかねない」という市内外からの反発によっ て、見直しを決めた。(南九州支局 谷田智恒)

 同日開かれた市議会全員協議会で説明した。

 市総務課によると、友好協定の話は今年1月、世界各国を歩いて平和や環境保護などを訴えているという横浜市の男性(32)が、持ち込んできたのがきっかけ。男性は昨年12月、同市の知覧特攻平和会館を訪れ「特攻隊員の遺書を読んで感動した。世界に平和を発信しているアウシュビッツと結びつけたいと思った」と担当者に語った。

  男性は今年2月頃、アウシュビッツ強制収容所跡地のあるポーランドのオシフィエンチム市のアルベルト・バルトッシュ市長と面談し、南九州市との提携話を持 ちかけたという。市長から「世界平和の発信に向けたパートナーシップを前向きに考えたい」とする親書を受け取り、5月末に南九州市役所へ持ち込んだ。

  南九州市役所内部では「ユダヤ人をはじめ多くの人命が奪われたオシフィエンチム市と同様に、知覧では夢と希望のある多くの若者が特攻隊として飛び立った。 戦争で多くの尊い命が失われた事実を認識し、その記録・記憶を後世に伝えねばならない使命があり、両市で手を携えて平和の道を歩もう」という理由で、友好 交流協定の締結を決定した。

 今月8~12日に霜出(しもいで)勘平市長や男性ら4人がオシフィエンチム市を訪問し、協定締結を話し合った。旅費(1人あたり約37万円)は、市議会の可決を経て、市から出ていた
  ところが、両市の協定に「祖国や家族を守ろうとした特攻隊員と、ナチスによるユダヤ人虐殺が、同質のものとして受け止められかねない」などと反対意見が続 出した。特攻隊員の遺族や縁の人々も、多くが反発した。電話やメール、ファクスによる市への抗議は100件以上に達した。
市総務課長の金田憲明氏は「(抗議の電話をしてきた人々に)市の立場を説明したが、理解してくれる人は皆無だった。これほどの拒否反応が出たことは正直驚きであり、われわれの勉強不足だった」と語った。

 南九州市は今後、友好交流協定を中止することについて、おわびとお断りの文書をオシフィエンチム市に送る。文書では「(日本)国内では、さまざまな意見が寄せられ、混乱が生じている。オシフィエンチム市にも迷惑をかけるかもしれない」などと説明するという。

  霜出勘平・南九州市長の話「市としては、平和な世界の構築に向けてメッセージを送り続けねばならないとの思いから、オシフィエンチム市との連携を試みた が、残念な結果となった。戦後70年事業として米ハワイ州のミズーリ記念館で特攻資料を展示している。外国の方々の特攻隊員に対する理解も進んでおり、今 後も特攻の真実を伝える努力を続けていく」
産経ニュース2015.7.29
http://www.sankei.com/politics/news/150728/plt1507280007-n1.html


コメントで教えてもらったのだが
世界各国を歩いて平和や環境保護などを訴えているという横浜市の男性(32)

それがこの人
ツイッター(YUJI MIYATA @YUJIEARTHMAN)を時系列で見ると

2015.4.24 オシフィエンチム訪問
yuji miyata earthman アウシュビッツ訪問https://twitter.com/YUJIEARTHMAN/status/591624482013470720

2015.5.26 南九州市訪問 オシフィエンチムからのビデオメッセージを受け取る
yuji miyata earthman 知覧
https://twitter.com/YUJIEARTHMAN/status/603246415607799808

2015.7.9 霜出市長アウシュビッツ訪問
yuji miyata earthman 市長アウシュビッツ
 https://twitter.com/YUJIEARTHMAN/status/619290512990695424

右にM.G.シェフタル氏がいますね
 yuji miyata earthman 知覧mgシェフタルhttps://twitter.com/YUJIEARTHMAN/status/619605001317449728

2015.7.16 NHKが報じる
yuji miyata earthman NHKアウシュビッツ知覧https://twitter.com/YUJIEARTHMAN/status/621621354693984257

2015.7.27 謝罪文掲載
yuji miyata earthman 謝罪文掲載

https://twitter.com/YUJIEARTHMAN/status/625717492774764545

HPの自己紹介文
yuji miyata earthman introduction
慶応policy management (SFC)
韓国に行き韓国語を学び、延世大学に
https://yujiearthman.wordpress.com/videon/
yuji miyata earthman korea walk 仏国寺

yuji miyata earthman

平和活動も結構ですけどねぇ
yuji miyata earthman 集団的自衛権
 https://twitter.com/YUJIEARTHMAN/status/622428173930594304

徴兵制があって集団的自衛権のある韓国に居たのに槍玉に挙げるのは日本
まず韓国の徴兵制なくす運動が先だろうよ

はっきり言いましょう
「PEACE」と言う奴は疑え!

不吉だ・・


【youtube】【深層、真相、心操!】謝罪の勧め?同期入省・岡本行夫君の不見識に物申す![桜H27/7/27]

【人界観望楼】
日本は70年前の負の遺産から逃れられない MITシニアフェロー・岡本行夫

  1週間前、ロサンゼルスで、ある日本企業が米国の元戦争捕虜たちに謝罪し、和解した。戦争中に900人の捕虜を劣悪な環境で強制労働させたことへの謝罪 だった。私もその企業の社外役員としてその場にいた。感動的であった。95歳になる捕虜団体の代表者が頭を下げた。「私が日本人に頭を下げるのは2度目 だ。最初は70年前。頭を下げなければひどく殴られたからだ。きょう頭を下げるのは、謝罪にきてくれた日本人の勇気に敬意を表するためだ」と。

 米国人捕虜の多くは安倍晋三首相が4月に米議会での演説で言及し、それも含めて戦争に「深い悔悟」を表明したバターン・コレヒドールで 捕らえられた。ほとんどの捕虜は既に死去しているので、遺族たちが来た。「父がこの場にいたらどんなに喜んだでしょうか」と老婦人が涙ぐんだ。日本の企業 が謝罪すると聞いてイギリスから飛んできた捕虜の息子もいた。「謝罪してくれることに感謝したかった」と。生存者は僅かであり、今回は最後の機会であっ た。

 日本は欧米人の捕虜を差別的に取り扱った。白人は「碧眼(へきがん)俘虜(ふりょ)」と呼ばれ、日本に連行されてきた。昭和17年 の陸軍の「俘虜処理要領」には、白人以外の捕虜は速やかに解放するが「白人俘虜はこれをわが生産拡充ならびに軍事上の労務に利用する」とある。日本人の白人コンプレックスを払拭させようと、見せしめのようにして、重労働を課したのである。その数3万4千人。そのうち1万2千人の米国人捕虜を筆頭に、英、蘭、豪の4カ国の「白人捕虜」が全体の95%を占めた。(数字は茶園義男氏の調査による)

  17年の新聞に見出しが躍る。「米英俘虜、わが生産陣へ一役 碧眼部隊一行来る」「打破せよ心中の“米国” 米俘虜に『お可哀想(かわいそう)』とは何事 ぞ」。陸相、東条英機は捕虜収容所長たちにこう訓示した。「抑々我(わが)国は俘虜に対する観念上其(そ)の取扱に於(お)いても欧米各国と自ずから相異 なるものあり。諸官は…人道に反せざる限り厳重に之(これ)を取締り一日と雖(いえど)も無為徒食せしむることなく…」。苛酷な扱いを受けた日本の収容所の捕虜たちの致死率は25%に達した。この数字はロシアのシベリア抑留とともに世界で群を抜いて高い。ちなみに欧米が抑留した捕虜の致死率は数%であった。

  日本は「強制労働」について中国と韓国から裁判を起こされている。韓国が主張する「徴用工」問題は戦争捕虜問題とはだいぶ性質が異なるが、日本に連れてこ られた中国人労働者のケースは、法的整理は異なるが、戦争捕虜と類似している。謝罪だけを求めた米国戦争捕虜と異なり、中国人労働者の遺族たちからは金銭 的要求が出されているので、そのぶん解決は容易ではないが、既に裁判となっており、不誠実な対応はできない。「価値の外交」を標榜(ひょうぼう)してきた 日本である。安倍首相の米議会演説は見事であった。戦争捕虜問題を含めて、日本は70年前の負の遺産から逃れられない。国家は、モラルを失えば漂流する。 (おかもと ゆきお)
産経ニュース2015.7.27
http://www.sankei.com/column/news/150727/clm1507270007-n1.html


三菱マテリアル:強制労働の元米国人捕虜に謝罪 大企業初
三菱マテリアル岡本行夫SWCクーパー毎日新聞

◇米ロサンゼルスで「おわびは、よりよい未来に向けて…」
【ロサンゼルス長野宏美】三菱マテリアルは19日、前身である三菱鉱業が第二次大戦中に旧日本軍の捕虜になった米国人に強制労働をさせたとして、米ロサンゼルスで元捕虜と遺族らに謝罪した。日本政府は2009年と10年に公式に謝罪しているが、謝罪を仲介した団体によると、日本の大企業が公式に謝罪するのは初めて。
 人権団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」の施設で、非公開で行われた。同社の木村光常務執行役員が、元捕虜のジェームズ・マーフィーさん(94)や遺族に「このような不幸な出来事を二度と起こさない」と伝えたという。
  木村常務は面会後の式典で、三菱鉱業の国内4カ所の鉱山で約900人の元米国人捕虜を働かせたことを認め、「道義的責任を痛感している。おわびは過去の不 幸な出来事を反省し、よりよい未来に向けて一層の努力を重ねる決意を示すものだ」と語った。マーフィーさんは「歴史的だ。私たちは70年間これを望んでい た」と謝罪を受け入れ、「他の日本企業にも広がってほしい」と期待した。マーフィーさんはフィリピンで捕虜になり、連行中に多数が死亡した「バターン死の 行進」を経て、秋田の鉱山に送られたという。
 元捕虜と日本側関係者の対話を後押しする米国の団体「捕虜 日米の対話」が数年前から、元捕虜を働かせた日本企業に謝罪を呼びかけていた。三菱マテリアルは昨年7月に受け取った謝罪呼びかけの手紙を契機に、「元捕虜が高齢なので、できるだけ早く謝罪したい」と判断したという。
(「捕虜 日米の対話」 徳留絹枝氏が代表)
 米国では元捕虜が日本企業に賠償や謝罪を求める提訴が相次いだが、00年代初頭に、個人の賠償請求権放棄を定めたサンフランシスコ平和条約を理由に退けられている。
韓国では三菱重工業などを相手取った元徴用工の訴訟が相次ぎ、中国では三菱マテリアルなどを相手取った訴訟が昨年3月に受理されている。木村常務は中韓への謝罪を問われたが、「係争中の案件のコメントは控えたい」と述べるにとどめた。
毎日新聞2015.7.20
http://mainichi.jp/select/news/20150721k0000m040028000c.html


映画『アンブロークン』はこの前振りだった
アンブロークン直江津http://www.theepochtimes.com/n3/1162060-unbroken-a-film-about-forbearance-and-forgiveness/
きっとこのように働かされたのだろう、というイメージを植え付けるための映画

Iris Chang Abraham cooper
mikehonda徳留絹枝
いずれこういう問題になるだろうと思って書いてきた(思ったより早かったけど
【アンブロークン the unbelievable BROKEN story】

表現の自由だとか言って公開しろだとか、立派な映画だとか言って来た人は
国を売った金で枕を高くして寝るのだろうね
さしたる高さにはなるまいに

実際は・・・ 

アンブロークンクリスマス劇
 これまで見た中で、最高のショーだった。
とても幸せな気持ちにしてくれた。
皆が皆、そう思っていた。

これほどのショーにこれまでお目にかかったことがなく、我々は存分に楽しむことができた。
いや、あれから何十年も経った今も、あんなショーには出会ったことがない。

私は今でも、あの「シンデレラ」が最高のショーだと思っている。

ミツジのブログ
『「アンブロークン」が「奴隷収容所」だという大森捕虜収容所のクリスマス大演劇「シンデレラ」はこんなにすごいショーだった!』
http://mituzi.blog.fc2.com/blog-entry-27.html

国対政治のドン田辺誠死去 語られざる金丸訪朝団の謎
田辺誠

 7月2日、旧社会党の委員長を務めた田辺誠氏が93歳で死去した。自民党の金丸信元副総裁と太いパイプを持つ「国対政治のドン」として知られ、一時代を築いた。

 田辺氏は、群馬県出身。組合活動を経て、国会議員となり、右派のリーダーとして書記長、委員長を歴任する。

 いまだに謎が多い「金丸訪朝団」に関しては、田辺氏しか知り得ない秘密もあった。

 1990年9月、金丸氏と田辺氏が両党の国会議員らを引き連れて北朝鮮を訪問。当時は北朝鮮による日本人の拉致事件の認知度は低く、世論は北朝鮮との国交回復に期待し、両氏は喝采を浴びた。

 実は、訪朝団は田辺氏の「お膳立て」で実現した自社両党の一大プロジェクトだっ た。田辺氏は1983年の党書記長就任後、党のお家芸である対北外交に力を注ぐが、北朝鮮側が万年野党の社会党よりも自民党との関係を重視し始めた。そこ で、野党の限界を知る田辺氏は、国対政治のパートナーの金丸氏に訪朝を打診したのだ。金丸氏は当初、国交のない北朝鮮行きを渋るが、田辺氏が懸命に説得し たという。

 だが、訪朝中に、金丸氏と金日成北朝鮮主席が2人きりで極秘会談。日本側から通訳が入らず、メモ類や外交記録も一切存在して おらず、金丸氏が会談の中で多額の「経済援助」を約束してしまったとの説が根強い。抜け駆けされた田辺氏にとっても大きな衝撃で、同行記者団に怒りをぶち まけた。

「ただ、後に田辺氏は金丸氏から5時間近くにわたる会談内容を詳細に聞いて、納得したようです」(社会党関係者)

 田辺氏は訪朝団に関する文章をいくつか残しているが、金丸・金会談については詳細に触れていない。

 金丸・田辺ラインはその後も機能した。半ば伝説となっているのが、1992年のPKO国会だ。PKO協力法案を巡り、与野党の対立が激化。自民党にスキャンダルも噴出し、予算成立が見通せない混乱状況に陥った。

 当時の宮沢喜一首相の懇請により副総裁に就任した金丸氏は、子飼いの梶山静六氏を国対委員長に指名する。梶山国対となると、予算は無事に成立。PKO協力法も修正を経て、成立したのだ。

 1996年に政界を引退し、地元の群馬県前橋市内で老人福祉施設の運営に専念した。昨年夏に面会した関係者によると、杖を使って自力で階段を上るほど元気だったという。
週刊文春WEB2015.7.9
http://shukan.bunshun.jp/articles/-/5253


田辺誠さん死去 元社会党委員長、93歳

旧社会党委員長を務めた元衆院議員の田辺誠(たなべ・まこと)さんが7月2日夜、前立腺がんのため前橋市内の病院で死去した。93歳だった。前橋市出身。47NEWSなどが伝えた。

旧社会党右派のリーダー的存在で、安保・自衛隊容認の改革案をまとめるなど現実路線を推進。故金丸信元副総理をはじめ自民党にも幅広い人脈を持ち、1990年には金丸氏と北朝鮮を訪問した。

逓信官吏練習所本科卒。41年から逓信省勤務。全逓群馬地区委員長、群馬地評議長、群馬県議などを経て、60年の衆院選で旧群馬1区から初当選、以来11回当選。

(旧社会党委員長、田辺誠氏が死去 現実路線で自民にも人脈 - 47NEWS 2015/07/03 10:28)
http://www.47news.jp/CN/201507/CN2015070301001311.html 

保革伯仲時代に党国対委員長を長く務め、当時の自民党国対委員長だった故金丸信氏とパイプを築いた。故飛鳥田一雄委員長の執行部で副委員長となり、1983年、石橋政嗣委員長時代に書記長に就任した。

金丸訪朝団田辺誠


1991 年、土井たか子氏の後を受けて委員長に選出された。1992年には国連平和維持活動(PKO)協力法の成立を阻止するため国会で当時の宮沢内閣と対峙して 牛歩戦術や党所属議員の総辞職作戦を取ったが、失敗した。さらに、党内から、金丸氏との親交について批判が高まり、1993年に辞任した。

1996年の衆院選に出馬せず、政界を引退。同年、勲一等旭日大綬章を受章した。
ハフィントンポスト 執筆者: 中野渉 2015.7.3
http://www.huffingtonpost.jp/2015/07/02/obituary-makoto-tanabe_n_7718960.html


参考
金丸訪朝団(産経) 
金丸訪朝団(朝日) 


【youtube】南京大虐殺記念館は社会党田辺誠が造った H19.1.29 

特攻とアウシュビッツ?
(´・ω・`)続報

特攻とナチスの虐殺は違う 
鹿児島南九州市・知覧、「アウシュビッツ」との連携見直しへ 遺族らから反対意見相次ぐ
知覧南九州市

  さきの大戦末期、旧日本陸軍の特攻基地「知覧飛行場」があった鹿児島県南九州市が、アウシュビッツ強制収容所跡地のあるポーランド南部の都市と進めていた 友好交流協定について、締結見直しを検討していることが24日、分かった。特攻隊員の遺族らから「ナチスによるユダヤ人差別・虐殺の象徴と、特攻基地を同 一視すべきではない」などとする反対意見が相次いでいるためで、市は仕切り直しを余儀なくされそうだ。(南九州支局 谷田智恒)

 南九州市によると、ポーランドの都市は、オシフィエンチム市。アルベルト・バルトッシュ市長から今年5月、「世界平和の発信に向けたパートナーシップを前向きに考えたい」とする親書が届いた。
 これを受け、今月8~12日、南九州市の霜出(しもいで)勘平市長ら4人がオシフィエンチム市を訪問し、友好交流協定を結ぶことを確認したという。南九州市は、国連が定めた「国際平和デー」の9月21日にバルトッシュ市長らを招いて、協定締結式を開くことを決めた。
この両市の連携を今月15日以降、地元紙などが報じたところ「祖国・家族を守るために命をなげうった特攻隊の基地と、ユダヤ人虐殺の象徴であるアウシュ ビッツが同質のものとして受け止められかねない」などと懸念する意見が、市に寄せられるようになった。これまで100件を超す抗議の電話やメールなどが あったという。

 自民党鹿児島県連にも、特攻隊員の遺族から「命をかけて祖国を守ることを仲間と約束した若者の崇高な思いを、軽率な行い で汚されたくない」などとする投書が届いた。党県連関係者は「地方自治体の取り組みに干渉はしないが、アウシュビッツと異なり、知覧は決して『忌まわしい 過去』ではない。違和感を覚えられる遺族の心情は理解でき、国際的に知覧が『日本のアウシュビッツ』と誤解されないか心配だ」と語った。

 数多くの特攻隊員の世話をし、「特攻の母」と呼ばれた故・鳥浜トメさんの孫、明久氏は「戦争の“狂気”といえば共通する面もあるが、アウシュビッツと全く違う。知覧は知覧で良いと思う」と話した。
 反対意見が相次ぐ状況を踏まえ、南九州市は庁内で会議を開くなど、計画見直しも含め検討を始めた。
霜出勘平・南九州市長の話「アウシュビッツ博物館で、知覧特攻平和会館が所有する特攻隊関連の資料展示ができれば、世界中の人に特攻のことを理解してもら えると思って友好交流提携を考えた。あくまで世界平和発信のため、良かれと思って計画したが、色々なご意見があることもわかった。こうした取り組みは多く の賛同を得て進めるべきであり、争いが起こったら意味がない。熟慮を重ね、決断したい」
産経ニュース2015.7.25
http://www.sankei.com/politics/news/150725/plt1507250002-n1.html

余談
例えばこの南九州市長が英語が堪能だったらこういう問題は起きなかったのか
ユネスコ大使佐藤地氏は英語出来るだろうけど
あんな大失態になるわけで
英語教育に力を入れること自体はいいとして
「グローバル化社会に勝ち残るため」
の解決法が英語公用語化っていうのはどうなん?
それじゃないんだよ
日本語・天皇制はグローバル化の邪魔 桐島ローランド 
あ、そうそう
発音までバッチリな英語が堪能な議員といえば 河野太郎 だったりします(ワラ 

李登輝元総統が来日した
李登輝来日外国特派員協会
「台湾の主体性を確立する道」〜李登輝・元台湾総統が会見(講演編)
BLOGOS2015.7.23
http://blogos.com/article/124234/

自分は日中平和友好条約に伴い台湾と国交断絶したことを大変な間違いではないかと思って
(国交正常化なんて間違った言葉は使わないというプロテスト)
青嵐会のことを書こうとしていたのであるが
青嵐会

数年が経過(゚∀゚)アハハハ

・・・気を取り直していってみよう


(筆者=河内孝氏 自分が補足した部分は緑文字
(引用は抜粋)

中国ブームとインフレ
p31~33
 1971年7月15日、突然、しかも日本の頭越しにニクソン米大統領の訪中が発表された。元駐米大使の牛場信彦は、これを「日米関係、最悪の悪夢」と嘆いたが、国民感情にもまた大きな衝撃を与えた。

 アメリカにはアメリカの国益があり、それにしたがって行動する。日本とアメリカの国益がすべて合致することはあり得ない。あたりまえの理屈なのだが、このとき日本人の多くが感じたのは、ショックというより、名情しがたい怒りだった。

「(日本人の)ペリー来航以来存在し、内にこもった西洋への憤りはまことに強いものがあった。それが主としてアメリカに向けられたのは一見奇妙なことだが、理由がある」(高坂正堯『世界史の中から考える』、新潮社)。それに火がついたのだ。

 戦後史には何回か、日米安保体制化で抑圧されたナショナリズムが噴出する瞬間がある。『アメリカに裏切られた』 というニクソン・ショックへの反動は、国を挙げての日中友好へと振れた。

 田中首相の行動も素早かった。1972年7月に新首相に選出された直後、ハワイでの日米首脳会談で米側に通告すると、9月には訪中して一気に国交樹立に突き進んだ。

 この年2月にニクソンが訪中したとき、米国は両国の基本的立場を両論併記した「上海コミュニケ」の調印にとどめ、正式の国交回復までには以後7年間を費やした。相互防衛条約をむすんでいた台湾のとの関係処理に、それだけの時間が必要だったのだ。

  宮城大蔵上智大准教授は、「これをみても日本の対中接近が、いかに急激なものであったかがうかがいしれよう」(『「海洋国家」日本の戦後史』、筑摩書房) という。同時に、田中の急激なアジア政策の変更が、東南アジア、特にインドネシアの警戒感を招き、これが2年後、田中訪問の際の反日暴動につながったとの 見方を示している。(→【wiki】マラリ事件

 無論、日本の対中接近は田中の個人プレーではない。「それはもちろん、長らくアメリカによって抑えられてきた対中接近の欲求が一挙に表面化したものであったが、同時に、『対中国交樹立ではアメリカを抜き返して見返してやろう』という心理があった(同前)」というのだ。

 それにしても、手のひらを反すような田中外交を憂慮する人もいた。

 財界の御意見番であり、後に日経連会長をつとめる桜田武はこの頃、外相大平正芳の側近、伊藤昌哉に「日華条約破棄は前代未聞のことだ。敗戦国民が戦勝国民との条約を一方的に破棄することなど聞いたことがない。溝に落ちた人に石を投げるな、と台湾の人々は私に話している」(伊藤昌哉 『自民党戦国史』、朝日ソノラマ)と語った。


国交断絶一周年記念の台湾訪問団
p99~101
 9月29日、青嵐会は日中国交回復の日に合わせて「中華民国国交断絶一周年大訪問団」を台北に送り込む。

 日華議員懇談会(灘尾弘吉会長)、日韓議員連盟(宇野宗佑幹事長)も参加した一行は衆参議員80人を超え、秘書や関係者を入れると百数十人にもなり、日本航空のチャーター機が仕立てられた。

 その幹事を務めた宮崎正弘は、「このときが、その勢いにおいて国内の北京派を凌駕したピークだったかもしれない」(前出、『三島由紀夫「以後」』」と記している。

 この頃、日華懇は日韓議連、そして青嵐会の助けを必要としていた。国交断絶後の日台関係で唯一残された航空路を、何としても現状に近い形で守ることが最大の目標だった。そのためには、あらゆる政治勢力を結集する必要があったからだ。

 こうして親台と親韓のベクトルが合致した。衆参80人を超える議員を背景にしたエネルギーが、この年暮れの「青嵐会を励ます会」を成功させ、翌年1月の国民集会を盛り上げ、日中航空協定の締結に反対する運動を支えていくことになる。

  訪問団(灘尾弘吉団長)を、台湾側は精一杯もてなした。10月1日には蒋経国首相が歓迎の宴を開き、翌日には蒋介石総統が一行と接見した。主要紙はどこも 同行記者をつけなかったため詳報はないが、AP通信によると、蒋経国首相は歓迎晩餐会で「台湾との国交断絶は日中戦争、真珠湾攻撃と並ぶ日本の三大ミステ イクだ」と述べたという。

 一行が帰国した10月4日、日華懇は総会を開いて「日台空路の現状を維持する。伝えられる中国の要求は、わが 国への内政干渉であり反対する」と決議した。「伝えられる中国の要求」とは、「中華航空機の(機体に描かれた)青天白日旗は認められない、中国民航との同 一の空港利用は認めない」などの主張を指している。


全国紙への意見広告
p103・104
 首相が訪ねた アジアの国で
 日本の心 日の丸が
 焼かれた その日を忘れない
 道義をなくし 思想なき
 日本をかれらは 許さない
 自由の台湾切り捨て
 共産主義の中国に
 おもねる日本を許さない
 エコノミックなアニマルと
 怒る心が 日の丸焼いた
 青嵐会こそ 日の丸を
 力の限り 守り抜く
 風のまにまに 目先をかえる
 魂忘れた 政治なら
 青嵐会は許さない

 (青嵐会意見広告より、「産経新聞」1974年1月26日)

(日中航空協定は協議が難行)

殺された警官の遺族に
p125
 激論の最中、千葉県選出の浜田(幸一)が出席者に語りかけた。
「も し、私が成田で殉職した警察官(1971年9月16日成田空港建設現場付近で起きた「三警官殺害事件」を指す=筆者注)の遺族にこう聞かれたらどうする か。--私の父、私の兄を殺した人たちを表彰までした中国が、今度はうってかわって新空港を自分だけが使うという。その一方では、日本と同じ自由主義を標 榜する台湾には使わせないといい、政府がそれをそのまま認めたのはなぜなのかーーそう問われたとき、私は与党自民党の議員として、なんと説明したらいいの か? どうか教えていただきたい」

 はじめはいつになくしんみりと、だが語るうちに激した浜田の握りしめたグラスが音を立てて砕け、掌から鮮血がしたたり落ちた。

 浜田の発言を著書にとどめた石原は、「上席に並んだ幹部たちはみんな下を向いて満場寂として声がなかった」(前掲書:『国家なる幻影』)と記している。


最後の抵抗、公電漏えい事件
p128・129
  経済交渉としての日中航空協定は、まちがいなく不平等だった。中国は東京経由で念願の北米航路、アメリカ経由の中南米航路を得(た。これに対して「日本側 が強く主張した北京ーイスラマバード(パキスタン)-欧州路線を北京が認めなかった」(「朝日新聞」同年4月27日)。

 官民挙げての日中友好ムードの中で、こうした冷静な分析記事はごく限られていた。

 27日の記者会見で大平外相は、「(中華航空の)青天白日旗は国旗とはみなさない。日本側当局者が『中華航空』に言及する場合は、『中華航空(台湾)』とする」と述べた。

 5月7日の衆議院本会議、15日の参議院本会議をへて、青嵐会と日華懇の抵抗で遅れに遅れた日中航空協定はようやく承認された。

 4年後、福田内閣がまとめた日中平和友好条約の国会批准で衆議院本会議に出席して反対したのは、やはり浜田(幸一)と中山(正暉)、林(大幹)、参議院で反対したのは源田実と玉置和郎の二人に過ぎなかった。


田中退陣への三段跳び
p130
  今日の日台関係はじつに順調である。日台航路は毎日、ビジネスマンと観光客でにぎわっている。30数年前に、青嵐会や日華議員懇談会が「台湾を切り捨てる な!」と絶叫して、机を蹴倒さなかったとしても、経済的利害が合致すれば良好な関係が維持できたという見方もあるだろう。

 しかし、「日台関係のために汗をかいた、苦しいとき水に落ちた犬を打たなかった」日本の議員たち、日本人がいたことを台湾の人たちは何らかの形で心に刻んでいるようだ。すくなくとも筆者の知る何人かはそう言っている。

最後にちょっとだけ救い・・


【youtube】【河内孝】検証「青嵐会」~今の政治家が失ったもの[桜H21/9/15]  
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